今年70周年、仲見世商店街の歴史

はじめまして、ナカヒト町田の細井です。
ここでは、町田の仲見世商店街のお店やそこで
働く人たちの魅力を発信していきたいと思いま
す。
よろしくお願いします。

調べて驚いたのですが、実は、
仲見世商店街は今年70周年!
なのでした。

初投稿の今回は「仲見世商店街の歴史」
ご紹介します。

【目次】
仲見世商店街の前身、二・六の市
変わる商店街、変わる名前
幻の商店街名と由来
仲見世商店街はひとつの会社
今の仲見世商店街
私から一言(ご協力者と出典)


● 仲見世商店街の前身、二・六の市
1587年に商店街形成の原点となる二の市が
今の本町田で開かれました。
当時は今の本町田が町田の中心、原町田
は開拓されたばかりの土地だったようです。

1830-1844年辺りから、二の市の繁栄
を原町田にも、と今の仲見世商店街の場所
で二・六の市が始まりました。

いずれも1935年頃の二・六の市。売る人、見定める人。
(「町田市今昔写真帖」より)

当時は古着を中心に日用品と雑貨の店が
並んでいたようです。
1935年頃の地図にも「古着市場開設場」と
いう記載があります。
今の町田に古着屋さんが多いのは、何かしら
受け継がれているのかもしれません。


1935年頃の原町田4丁目辺りの地図。
赤枠が仲見世商店街のところだった古着市場開設所。
青枠は今も続くお店。
左から和菓子の中野屋さん、矢部日用品店さん、守屋肉屋さん。
(「昭和九・十年ころの原町田商店街の家並み図」より)

1854年横浜港が開港して、輸出品の花形だった
生糸が、長野、山梨、八王子から原町田を通っ
て横浜に運ばれるようになります。
これが「絹の道」です。

その中継点として栄えた二・六の市は、幕末、
明治、大正、昭和と続きましたが、1941年に
始まった太平洋戦争で物資が減り、やがて
閉鎖してしまいました。

変わる商店街、変わる名前
終戦を迎えた2年後の1947年、二・六の市の
空き地に「町田国際マーケット」が開業します。
韓国人の孫徳萬氏他が共同出資して建てた木造
のマーケットです。

戦災者、引揚者、復員軍人だった人たちが、
何とかお金を工面して、3年契約で借りて店を
開きました.

(「町田仲見世商店会の沿革」より)

1950年の契約期限には、大修繕を理由に全員
立退きを言い渡されます。
そこで商店街一丸となって何度も交渉した結果、
店舗を買い取ることで決着します。

これを機に「町田マーケット」に名称を変更し、
組合員55名の町田マーケット商業組合が設立。

(「町田仲見世商店会の沿革」より)

1951年の朝鮮動乱の特需もあり商店街は繁栄
します。

1953年には親善団体である商業組合から、協同
組合に生まれ変わります。
この時、名前が今の「仲見世商店街」になりま
した。


(「町田仲見世商店会の沿革」より)

1947年の開業から6年で3回名前が変わりま
した。
文字にするのは簡単ですが、実際は商店街全員で
多くの苦労を乗り越えて発展させてきた足跡に
他なりません。

● 幻の商店街名と由来

商店街の名前が仲見世に決まる時、他にいくつか
候補がありました。

・町田百貨店
・町田中央ストアー
・町田ストアー
・町田中央銀座
・町田万天会


(「町田仲見世商店会の沿革」より)

理事会では満場一致で「仲見世商店街」に決まっ
たそうです。

ところで、仲見世とは、神社や寺の境内にある
商店街を指す言葉。
商店街近辺だと浄運寺や天満宮がありますが、
境内というには遠過ぎます。

老舗の店主さんたちに伺ったところ、この仲見世
とは、浅草の仲見世商店街にあやかろう、という
商店街の意気込みで命名されたそうです。


浅草浅草寺に続く仲見世商店街の風景

● 仲見世商店街はひとつの会社

その後、仲見世商店街は更なる発展を目指して
取り組んで行きます。

1952年には自衛消防隊を組織して出初式に
も参加していました。


(「町田仲見世商店会の沿革」より)


1952年ころの出初式風景。場所は森野の町田製作所。
(「町田市今昔写真帖」より)

1954年に商業界顧問の診断を受けましたが、
その結果は厳しいものでした。
「まるで戦後のマーケットの安物街の様だ」と。

顧問からのアドバイスは、「ここしか営業できる
場所はない」という覚悟をもって商店街が団結
することでした。

仲見世商店街の皆さんは、この診断とアドバイス
を真摯に受け止めます。
「経営者としての人格教養、及び経営能力を
高め、近代化を図り、仲見世の発展に貢献する」
という目的で町田仲見世経営研究会を発足します。

東京の商店街を視察して回り、近代化が進んで
いることを知り、1956年から1957年に掛けて
鉄筋コンクリートに建て替えます。

これまで木造の建屋が火災延焼の種と警告して
いた消防署が、建て替えにより「町の防火壁」に
なると絶賛したほどの出来栄えだったそうです。
掛かった費用は1200万円、今の価値で約6000
万円掛かりました。

1963年以降は、商店街の各商店で採用する従業
員も共同募集して、従業員教育・訓練も八王子
青年の家や町田青年の家などで定期的に実施。
「事業は人なり」と力を入れました。


1956年の町田商店会主催、桜まつりの仮装行列。
各店主,町長,助役,警察署長,銀行店長などが行列。
赤穂浪士に扮したパレードは見ものだったとの記載があった。
(「町田市今昔写真帖」より)

また、店主と従業員の親睦として商店街の水曜
定休日を使って旅行や行事も行われました。
この様な取り組みと並行して、町田全体の商店
連合会の催しの他、仲見世商店街独自としても
売り出しや催しを頻繁に企画して実施しました。

ミスコンテストや現在の町田郵便局本局そばの
市営グランド建設基金寄付金の為、町田一小の
校庭でボクシングの試合なども行われました。

ミスコンテストの応募者は多かったそうで、
地元の人と商店街の繋がりがとても強かったこと
が伺われます。

● 今の仲見世商店街
現在、80メートルの仲見世商店街には33店舗。
平行するもう一つの通り、仲見世飲食街を入れる
と43店舗あります。
その中には60年を超える老舗あり、新たに始
まったお店あり。

仲見世商店街の入り口には
「バラエティーとんだお店がいっぱい!」
と書かれています。
初めて来た人は「昭和」「レトロ」という印象を
受けるようです。

昔は近隣に商店街がなく、電車で来るお客さんも
多かったそうです。
台所を支える存在として仲見世商店街は近隣住民
の生活に根付いていました。

原町田駅(現JR町田駅)と新原町田駅(現小田
急町田駅)を結ぶ通りは「かけ足通り」として
地元では親しまれて来ました。


旧原町田駅前から見た「かけ足通り」。左が2004年,右が1975年
左写真の右手黒い壁がビレッジバンガード。
その横が仲見世商店街入口。
(「町田市今昔写真帖」より)

その通りに面している商店街の人たちは、「亀の
子通り」とも呼んでいたそうです。
皆がかけ足で通るので、道の端が削れて、亀の
甲羅のように真ん中が盛り上がって見えたから
とか。

これも行き交う人とその場で見守る人、みんな
町田に愛着をもって「かけ足通り」を眺めてき
た例かもしれません。


1975年、かけ足通りで買い物する親子。
(「町田市今昔写真帖」より)

● 私から一言

今回ご紹介した歴史は、商店街の多くの方々に
ご協力頂いて伺った話しや、大切に保管されて
いた資料をお借りしてまとめたものです。

お礼をこめて、出典を下記します。
商店街の皆さん、ご協力ありがとうございました。

次回からはその商店街のお店を紹介します。

<お話し>
市川豆腐店 石井ご夫妻

亀屋 藤曲さん

岡前商店  岡前さん

<資料>

●岡前商店 岡前さん保管
「町田仲見世 商店会の沿革」

町田市役所保管:
「町田市今昔写真帖」(郷土出版社)

町田市役所保管;
「原町田の商店街のこと」(義沢千代子著)

町田市役所保管;
「昭和九・十年ころの原町田商店街の
家並み図」
(みみずくの会 編)

長くなりましたが、最後まで読んで頂きまして
ありがとうございました。
次回からお店と魅力的な店主さんたちをご紹介
します。
ご期待下さい!

ナカヒト町田 代表 細井丈友
見世商店街と地元の
・活かし活かされる繋がりを
町田らしさ」として未来に残す

本記事を書いた細井のプロフィールはこちらです。

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